【教養】常識を疑うために必要なもの

どうもアラサー男子オスギです。
今読んでいる本の中に良いなと思う文章が書かれていたので、そのことを今日は書こうと思います。

 

 

「常識を疑え」と言われることがあると思います。
自分が常識だと思っていること、常日頃から当たり前だと思って行っていること。
それらを一度疑って見て、果たしてそれでいいのだろうかと考える。
そして、変えるべきと結論づけたのであれば変えて、良いものにしていく。

 

とはいえこの「常識を疑え」は難しいことだと思います。
どういう事柄について疑うべきなのかどうかの判断基準は難しいと思います。
例えば、「赤信号では止まる」という常識を疑うべきなのか、どうなのか。
「会社には毎朝9時に来なければいけない」という常識を疑うべきなのか、どうなのか。

 

この二つの例ではなんとなく、「赤信号で止まる」は疑わなくて良さそうで、「会社には毎朝9時に来なければいけない」は疑った方が良さそうと思った人が多いかと思います。

 

この疑うべきかどうかの判断基準は「教養」ではないか、という話を書きたいと思います。

 

 

「教養」とは、「教養」を身につけていく

 

今回のキーワードである「教養」の意味について、まずは紹介してしようと思います。

 

教養

学問、幅広い知識、精神の修養などを通して得られる創造的活力や心の豊かさ、物事に対する理解力。また、その手段としての学問・芸術・宗教などの精神活動。

goo国語辞書

 

この教養があることが意味することですが、単純にいうと様々な物事を知っていて、理解する力がついてる状態になれるということです。
つまり、今までの歴史を学ぶことで、様々な事象の原因と結果を知ることができ、理解することができます。
そして、母国以外の国の言語や文化、習慣、風習を学ぶことで、そこの地方で共通する考え方を知り、理解することができます。
これらは一例ですが、歴史を学ぶと時間軸での教養の広がりができ、他国のことを学ぶと地理的・空間的な教養の広がりができます。

 

 

「教養」からどのように「常識を疑う」視点になるのか

 

この時間軸での「教養」の広がり、地理的・空間的な「教養」の広がりが出てくると、今自分の周りの環境や自分に対して起こっている常識について、他の事例を当てはめることができます。

 

例えば、バンコクではほとんどの従業員が車で朝通勤してきており、街中は通勤ラッシュで、定時に間に合わないことが多々ある。
友人は会社勤めだが、事務所に行く日は1週間に2−3回で残りは自宅や自宅近くのカフェで仕事をしている。
どこの国へ行っても昔から信号の止まれは赤である。
など、教養の広がりが出てくると、様々な事例を知ることができます。
そして、この様々な事例をもとに、今自分の周りの環境で起こっていること、自分の抱いている常識と差があるのか無いのかと気づくと思います。

 

差があった場合、どちらのやり方が誰にとって良いのだろうか・どう良いのだろうか、と考えることができます。
つまり常識を疑うべきことが自分の中で見つかり、疑うことができるようになります。

 

 

差がなかった場合は、どちらのやり方も同じであるから、疑うべき事象としては優先度が低いのでは無いかと結論づけることができます。(もちろん、そう思っても疑うべき事象かもしれないと決まります。)

 

 

つまり、「教養」があることで、過去の事例や、別の場所で起こっている事例に知っている状態となります。
それを現在の自分の事例と比較するのか、はたまた、それら2つとは異なる3つ目の結論を出すのかという考えになると思います。

 

 

このように「教養」があるからこそ、今の常識と比べることができ、疑うことができるようになるわけです。
つまらなさそうな自己啓発本でも、インターネット上の記事でも、信頼できるソースの情報源は日頃から意識して、読んで・聞くことで教養を身につけ、常識を疑える脳の下地を作っておくべきだと思っています。

 

ではでは

 

オスギ

1 個のコメント

  • […] 上記で書いた、「良い大学に行き、、、、」ということは、世間で言われている「幸せのお手本」だと自分では思っています。 ただ、この「幸せのお手本」通りの人生を歩けば幸せと、自分の考えずにそれを目指してしまうのは、危険だなと思っています。 参考記事:【教養】常識を疑うために必要なもの […]

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